e.十字架刑(杯)

 聖典間での共通の教えを探しておりますが、異なる教えが格段に多くあります。
 神(仏、宇宙意思、光の存在)からのメッセージは共通しても、後世の弟子たちの創作は一致しないのが当然です。

 例えば、新約聖書では十字架にイエスが掛けられましたが、コーランでは「よく似た男が身代わりになった」とされております。
 コーランの神は旧約聖書に登場する神(ヤハエ)と同じ神であり、イエスは預言者の一人とのことです。
2100年にはクリスチャン人口を超える見込みのイスラム教徒(ムスリム)はこの教えを堅く信じており、22世紀ではメジャーになるでしょう。

(「コーラン」 第4章アンニサーア章・婦人、第156節 )*1
「わしら(注:ユダヤ人)は救世主、神の使徒、マルヤム(聖母マリア)の子イーサー(イエス)を殺したぞ」などと言う。どうして十字架に掛けられるものか。ただそのように見えただけのこと。」
(回教ではイエスが十字架に掛けられて死んだことをユダヤ人の嘘言として否定する。イエスでなくてイエスに似た男が殺されたに過ぎない。)

参考(マルコ14.36) (ルカ22.42)
「アバ、父よ、あなたにできないことはありません。私からこのを取り除いて下さい。しかし、私の思いのままにではなく、思し召しのままに。」 とゲッセマネで苦しみもだえながらイエスは懇願した。
 ※この=十字架での処刑

前提①:イエスはアバ(天の父)のみ心ならば命を惜しまない
前提②:イエスは慈悲深い(利他愛)
出来事A:使徒ペテロは「あの男は知らない」と3回も言った
出来事B:イエスは「この(十字架刑)は取り除いて」と身もだえして懇願

(考察1)前提①&出来事B→不自然です
使徒やクリスチャンも大勢殉教したのに、イエスが自身の命を惜しむのは腑に落ちないでしょう。

(考察2)前提①&前提②&出来事A&出来事B→不自然でないでしょう
アッラーの啓示通りならば論理的に整合します。イエスは 慈悲(利他愛)ゆえに大層苦しんだことでしょう。身代わりはイエスの兄弟か弟子の一人かも知れません。

 本当のイエスの姿、み言葉がどうであったのかは、焚書されたが近代に発見された原始キリスト教文献群も参照することが肝要かと存じます。
 例えばナグハマディ文書の中の「フィリポの福音書」32節*2では、イエスはいつも3人のマリアとともにいて、一人が伴侶マグダレネーだったとあります。
 発見当時は「そんな、馬鹿な!」という反響が大でしたが、2014年にハーバード大のカレン・キング教授が『イエスの配偶者』と思われる紙片を解読しております。パピルス紙片の中央部分には、「イエスは彼らに言った。私の妻は……彼女は私の弟子になることができ……」と書かれていて、放射性炭素年代測定を行った結果、紙片は659~869年のものであることが分かりました。

参考(「フィリポの福音書」23b節)
彼はこう言ったのである。「私の肉を食べず、私の血を飲まない者には生命はない」と。これは何のことであろうか。彼のとはことば(ロゴス)のことであり、彼のとは聖霊のことである。

*1 「コーラン(上)」井筒俊彦訳、岩波文庫、P138
*2 「ナグ・ハマディ文書Ⅱ」荒井献、大貫隆他訳、岩波書店、P68,P64