d.トマスの福音書

 現代のキリスト教の聖典よりも、焚書されたキリスト教文献群の中に大乗仏教に類似したものが結構あります。
 死海文書の中の「エッセネ派宗規要覧」や、ナグハマディ文書の中の「トマスの福音書」などは大乗仏教の『如来蔵』と法(真理)が似ているように考えます。

(「トマスの福音書」 3章)*1
イエスが言った。「もしあなたがたを導く者が『見よ、王国は天にある』と言うならば、天の鳥があなたがたより先に(王国へ)来るであろう。彼らがあなたがたに、『それは海にある』と言うならば、魚があなたがたよりも先に(王国へ)来るであろう。そうではなくて、王国(注:神の国)はあなたがたの直中にある。そして、それはあなたがたの外にもある。あなたがたは、あなたがた自身を知るときに、あなたがたは知られるであろう。そして、あなたがたは知るであろう、あなたがたが生ける父の子らであることを。」 
注)神の国は人(神の子)の内にあり。

(「トマスの福音書」 50章)
イエスは言われた。「もし彼らがあなた方に『あなた方はどこから来たのか』と言うならば、彼らに言いなさい。『私たちは光から来た。そこで光が自ら生じたのである。それは自立して彼らの像において現れ出た』。もし彼らがあなた方に『それがあなた方なのか』と言うならば、言いなさい、『私たちその(光の)子らであり、生ける父の選ばれた者である』。」
注)人は神の子、光の子

(「トマスの福音書」 113章)
彼の弟子たちが彼に言った、「どの日に王国は来るのでしょうか。」。
(彼が言った、)「それは、待ち望んでいるうちは来るものではない。『見よ、ここにある』、あるいは、『見よ、あそこにある』などとも言えない。そうではなくて、父の国は地上に拡がっている。そして、人々はそれを見ない。」 注)3章と合わせて読めば、地上天国のヒントが覚れるかと存じます。

 新約聖書の中では、共観福音書(マタイ伝、マルコ伝、ルカ伝)と比べてヨハネの福音書の筆記者は「イエスのみが神の子(神の独り子)」と強調しておりますが、トマスの福音書の筆記者は「人は皆神の子」と記載しております。もしトマスの福音書が焚書されていなければ現代のキリスト教も大きく変わっていたかと考えます。


*1 「ナグ・ハマディ文書Ⅱ」荒井献、大貫隆他訳、岩波書店