b.ナザレのイエス

「ナザレのイエス」と聞くとクリスチャンの多くは「ナザレ村から来たイエス」だと理解しますが、実際はどうでしょうか。

根拠の一つは旧約のどこにもパレスチナのどこかにナザレという町が存在したという記載は無いからです。
「イエスがナザレ市へ戻った」という訳は多いですが、「ナザレ人達(Nazarenes)に戻ったイエス」と訳すべきです。
また『ナザレ人』というユダヤ教異端者への呼称は新約聖書、コーランを読めばあります。

(使徒行録24:5)
大祭司アナニアは総督にパウロを告訴した。
「この男はまるで疫病のような人間で世界中の全てのユダヤ人の間に争いを起こす人物で、ナザレ人らの宗派の主謀者です。」

(「コーラン」 第5章、食卓、第17節 )*2
また「我々はナザレ人(キリスト教徒)じゃ」と自称する者どもとも我ら(アッラー自称)は契約を結んだが、(略)

(補足)
・ユダヤ人の文献では、イエス当時のエルサレムでは異邦人のことをナザレ人とかナザライト人とか呼んでいた。
・当時の古い地図を見てもガラリア地方にナザレと言う村はなかった。
・3世紀にエン・ナシラ(en-Nasira)という大変小さな居住地が「ナザレ」と改名された。←ココ重要!
・エン・ナシアには大きな建物はなく、「ナザレ」と改名された3世紀でも会堂のような大きな建物は無かった。
・もし「ナザレ」州のような大きいエリアであれば地図に出ないことはない。

(マルコ6:1-2)
イエスは郷里に行かれ弟子達もついて行った。
安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。
聞きいる大勢の人々は驚いて言った。

よってマルコの福音書の記載が正しければ、会堂があったイエスの郷里はエン・ナシラ(後世のナザレ)でもなかったということになります。
以上、『ナザレ人』はナザレという地名とは無関係であることになるでしょう。

更にイエスは、洗礼教団の一派であるエッセネ派と何らかの関係を持っていたという説があります。
これはイエスに洗礼をさずけた洗礼者ヨハネは、エッセネ派が帰属した〈クムラン教団〉の出自であったかもしれないこと、および『死海文書』のなかに登場する「義の教師」の生涯がイエスの生涯に類似していることなどに由ります。
当時のユダヤ教にはパリサイ派、サドカイ派、エッセネ派という三大宗派があり、エッセネ派も各都市に多数いたことは、当時の歴史家ヨセフス、哲学者フィローンらが記録しております。
新約聖書の中で洗礼者ヨハネとイエスは、パリサイ派、サドカイ派の人達を「蝮の子(悪魔の子孫)」と罵倒しているので、消去法で考えるとエッセネ派またはその親派の可能性があります。

(マタイ3:7)
ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子よ、差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか。」
(マタイ12:34)
(注:イエスはファリサイ派の人々に)「蝮の子よ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。」

尚、 トマスの福音書と同様に焚書されて第二次大戦後に発見された(復活した)フィリポの福音書には丁寧な説明があります
(「フィリポの福音書」47節)*1
「イエス」とはヘブライ語では「救い」のことである。「ナザラ」とは「真理」である。だから「ナザレ人」とは「真理」のことである。

*1 「ナグ・ハマディ文書Ⅱ」荒井献、大貫隆他訳、岩波書店、P73
*2 「コーラン(上)」井筒俊彦訳、岩波文庫、P147