(「生きがいの創造(実践編)」飯田、PHP文庫、P338)
意外なことに、かなり多くの方々から、「僧侶には、あの世も魂も信じていない者が少なくないので」とお聞きして、びっくり仰天したことがありますよ。
注)平成28年正月に浄土真宗の三木悟住職(現代仏教塾 塾長)と対話しましたが、最近は僧侶の半数が「輪廻は方便で説いた」とか言っている状況を問題視しておられました。
(「現代仏教塾Ⅰ」吉村均、三木悟、岩井昌悟著、幻冬舎 P128-P130)
一般に仏教は「無我」を説くというのが、これまでの仏教書を読んでも出てくる言葉です。仏教の旗印は無我である。そして無我というのは「私というものは存在しない」という意味だ、というふうに理解されている。
しかし実はそうではなくて、私が存在しないのではなくて、「私が、私が」という我に対する執着を離れなさい、という教えなのです。(中略)
お釈迦さまが言われたのは、私のこの身体、これは我ではない、「自己ではない」。私が考えている私の心、思い、そういうものは常に動いていくものですね。ですからそれも「私ではない」。私が持っている持ち物、私のこういう着物とかね、財産、名誉とか、それも「私ではない」。
そういう意味で、「アナッタン、アナッタン。我ではない、我ではない」と言われたのです。ところがこのアナッタンが基になって、「我というものは存在しない」というふうに解釈されるようになった。これが無我論です。
しかし初期の経典をちゃんと読んでいけば、お釈迦さまが「自己(アッタン、アートマン)」というものを大事にされている経文というのは、たくさん出てくるのです。
注)一例としてはご臨終に語られた言葉「自灯明(自らを灯明とせよ)」では、自ら=我。
アナッタンを「非我」と訳すべきところを、中国僧が「無我」と誤訳したのが後世の混乱の因。
※ネット上で匿名の方(仏教学者?)がアップした見解「代表的な7つの誤解」
1.無我だから輪廻できない。 主要論者:和辻など。
反証:現在、諸法が無我でも縁起しているように、無我でも死後も輪廻する。
死後、輪廻しないというのは、断見である。
2.輪廻は、それを信じる蒙昧な古代人のための方便説である。 主要論者:和辻など。
反証:輪廻説がなかった、ギリシャ、シナ、チベットなどに思想抵抗にあいながらも、
必ず説いているので方便説ではない。聖者が獲得する宿命通からも方便説でないことが分かる。
3.十/十四無記で死後が不問にされている。 主要論者:桜部健など。
反証:水野弘元先生以下が論証したようにタターガタを人、有情と注釈するのは、ジャイナでも
タターガタという語を使うからで、十/十四無記のタターガタは、解脱者の意味に他ならない。
つまり、解脱者は死後どうなるのか、それは答えられないという意味である。
4.釈尊の仏教では輪廻は否定された。 主要論者:並川考儀など。
反証:輪廻は否定したという意味が異なる。輪廻は仏教で一貫して厭離され解脱することが目的である。
それを輪廻という現状を認めないという意味で無理に解釈している。
5.三世輪廻は部派のみのもの。主要論者:梶山雄一先生など。
反証:『雑阿含』『スッタニパータ』『小四十経』『量評釈』『タルカバーシャー』に明らかなように
原始仏教も大乗仏教も三世輪廻、というか輪廻は始まりはなく、終わりは解脱するまで続くもので、
それ以外の輪廻など現代日本以外で説かれたことなどないと思われる。
6.輪廻は現世の因果で転生ではない。主要論者:常識論
反証:経典の用例は明らかに前世・来世を想定したものであり、現世のみの因果であれば、
始まりと終わりがあることになり輪廻ではなく他ならぬ断見である。
7.輪廻や神々、地獄、餓鬼などは譬喩または、象徴表現としてとかれた。主要論者:望月海慧
反証:方便説のヴァリエーション。仏典では譬喩は、かならず譬喩と説かれる。
古今東西の文献・口伝の両伝承に譬喩であるという解釈はみつけられない。