K.阿波の石碑

令和2年10月31日、FaceBook古代史研究会グループのメンバーより下記投稿と写真の提供がございました。
「なまずの歌が残されています。阿波に於いて、江戸時代の神官であった岩雲花香(1792-1870)が神山で見つけた神代文字の意味がわからないので京都にのぼり当時の国学の師、平田篤胤に相談した。
そのあと、山口の下関で石材を入手して鯰の歌を刻んだと伝わります。」

150年以上前の貴重な岩刻模写なので、早速、手許の阿比留文字コード表ver.1.3を使用して解読しました内容を紹介します。

上段 スキノヲノミヤノミマヘニ ナマツノウタヨミテシロイ シニヱラシテタテマツレル
   椙尾(すぎのお)神社の御前に鯰の歌詠みて白石に彫らして奉れる
下段 ナミノマニイテテミエナム ヌヌサハフイハツノフチノ ソコノナマツハ
   波の間にいて見えなむ ぬぬさはふ(枕詞?)岩津の渕の底の鯰は
岩刻者 イハコモノハナヤ 岩雲花香

教育委員会はまだ神代文字を認めていないので驚くでしょうね。でも徳島の皆様の大切なお宝です。
古事記でも阿波はイザナギ、イザナミがオノコロ島に続いて造られたという古い地です。

この解読結果をFaceBook上にアップしましたところ、「ハングルで読める」、「過去に韓国は日本と交流があった」という声を多数頂戴しました。
過去に交流があった、というよりも紀元前に縄文人が朝鮮半島の南に大勢住んでいたということです。
今から7300年前(BC5300年)頃に鹿児島の南で鬼界カルデラ噴火(破局噴火)が起こって、遠く離れた関西でも火山灰が約20cm積もりました。
西日本の縄文人達は①死滅する、②日本列島の北方に逃げる、③当時無人に近かった朝鮮半島に逃げ延びる、という三択でした。
③は最新の遺伝子(Y染色体、核DNA)分析結果とも矛盾しません。日本への大勢の渡来人は縄文人の子孫の『里帰り』だったということです。
縄文人の子孫達は朝鮮半島と日本列島とを往き来しましたので、日本の神代文字が半島でも使われていた記憶があり、後のハングルの参考となったのでしょう。
日本では権力者が「漢字以前には文字は無かった」という教育を浸透させ、韓国ではハングルは1446年に李氏朝鮮第4代国王が公布と教えてきました。
因って神代文字で書かれている阿波の歌碑を、普通の日本人は誰も読めず、韓国人ならば皆が読めるという事実は、日韓両国政府にとって『不都合な真実』です。
もしかしたら『不都合な真実』を隠して、日本と韓国とが争うことによって『漁夫の利』を得る組織が存在するのかも知れませんね。

今回の阿波の歌碑の神代文字は、各神社の神宝、お札、奉納文における神代文字と同様に貴重な物証になります。