J.伊勢神宮文庫

【伊勢神宮奉納文神代文字保存委員会ホームページより】
伊勢神宮には、約1450年前の物部大連尾輿自身の奉納文や、藤原の鎌足・藤原の不比等・源頼朝・源義経等、99葉の本人による奉納文が保存されています。
そして、すべての奉納文が、日本古来の文字で奉納されています。(中略)
古来、内宮・外宮の域内には文殿(ぶんでん)や神庫(しんこ)という記録文書を納める施設があり、(中略)明治4年(1871)の神宮改正にともない、両文庫をはじめ文殿・神庫等の蔵書を合わせて設立されたのが神宮文庫です。
現在の建物は、大正14年(1925)8月に建てられた和洋折衷の建造物で、閲覧室や事務室などを配しています。

【神宮文庫の解読】
書籍『伊勢神宮の古代文字』で文字列イメージが公開されております4葉、「物部大連尾輿」「太安万侶」「稗田阿礼」「中臣連鎌子」の奉納文をコード表で解読してみました。
( )書きの文字は不明だったり、複数の候補がある場合です。もちろん変換間違いはあり得ますのでご留意願います。
私には6~8世紀頃の古語の知識がございませんので、主に神代文字から変換したカナ文字のみを提示します。

欽明天皇13年(552年)、大臣の蘇我稲目は仏像礼拝に賛成しましたが、大連の物部尾輿と中臣鎌子は反対しました。
また古事記編纂の4年前の708年、太安万侶と稗田阿礼は元明天皇のお供をして伊勢神宮(三重)に参拝し、奉納したことが奉納文から読み取れます。
因みに稗田阿礼は文盲どころか太安万侶よりも達筆で丁寧な文字を書きました。今から1470年ほど前の神代文字の奉納文で、ハングルではございません。
古事記と日本書紀の監修者は藤原不比等で、彼の事績になっております。

さて7300年前(BC5300年)頃の鬼界カルデラ噴火(破局噴火)の際に西日本縄文人が当時無人に近かった朝鮮半島に逃げ延びました。
その地が後に倭、伽耶、任那と呼ばれて、日本語が通じたことは、「山海経」などのシナの歴史書とDNA分析結果(Y染色体、核DNA)からも無矛盾です。
西日本縄文人が韓国人の祖先の一つであれば、神代文字(阿比留文字)がハングルの祖先になるのも極自然でしょう。
各地の神社で大切に保存されている神代文字を一般の日本人は誰も読めず、韓国人は皆さん読めるのは、両国政府にとって『不都合な真実』かと思料します。
この真実を覚った一人でも多くの両国民から誤解や争いが消えますことを祈念申し上げます。 天地弥栄

(中臣連鎌子の奉納文の訳)
アメノミハシラノカミ(天御柱神)
ナカオミツラシカマコ(中臣連鎌子)

(物部大連尾輿の奉納文の訳)
オホクニヌシノオホカミ(大国主大神)
スセリヒメノミコト(須勢理毘売命)
モノヘオホムラシオコシ(物部大連尾輿)

(太安万侶の奉納文の一訳)
マタアカアシ ミヘノマカリナシテ(また赤葦 三重の罷りなして) 
イタクツカレタリトノタマヒキ(いたく疲れたりと宣ひき) 
カレソコオミヘトイウ(かれ其所を三重と言う)
ヤマトホコアマツミシロトヨクムナリヒメミコト(日本根子天津御代豊國成姫命=元明天皇)
ツチノエサル(戊申=708年)

(稗田阿礼の奉納文の一訳)
ニツキノタノイナカラニイナカラニ(につきの田の稲茎に稲茎に)
ハヒモトホロフトロロツラ(はい回っている山芋のつる)
アサシヌハラコシナツム(朝篠原に腰にまつわりついて)
ソラハユカスアシヨユクナ(空は行かず足よ行くな)
ヤマトホコアマツミシロトヨクムナリヒメミコト(日本根子天津御代豊國成姫命)
ツチノヘサル(戊申)