1万6千年前、世界最古の縄文土器を持ち(青森県の大平山元Ⅰ遺跡)、最高の技術水準だった縄文人。
(注:2012年の共同通信で、「中国江西省洞窟遺跡で2万年前の土器発見!」は、洞窟年代の測定値でした。 *1)
7300年前(BC5300年)に現鹿児島南方で起こった鬼界カルデラ噴火(破局噴火)で火山灰は近畿でも20cm程度。
死滅しなかった西日本縄文人は食料を求めて火山灰のない地域(日本の北方または南朝鮮)に移動しました。
当時、南朝鮮が無人に近かったことは、韓国国立中央博物館の年表において遺跡が空白であることからも分かります。 *1
以降の南朝鮮は倭人(西日本縄文人)の国で、BC3世紀は倭国、紀元後は伽那、次に任那となりました。
朝鮮半島もだんだんと寒冷化して、紀元前から古墳時代にかけて縄文人子孫が渡来(里帰り)する。数万~数十万人。
里帰りしたので通常の混血とは言えず、DNAは縄文人に近いままになります。
以上は最近のDNA研究(Y染色体および核DNA)から分かってきた縄文人の移動についてです。
シュメールのウバイド期はBC5500年、エジプト初期王朝はBC3100年、黄河の夏はBC1900年からです。
南朝鮮に移動した縄文人の中から少人数が、これらの四大文明に知識、技術等を伝えることは可能だったのでしょう。
もちろん強い動機(教化、冒険、商売、他)があれば、鬼界カルデラ噴火以前でも移動は可能だったと考えます。
BC5300年以降には縄文人が大陸で活躍したという壮大な可能性の根拠の一つは「菊花紋」が世界各地の古代遺跡で発見されているからです。
・日本:平安京の朝堂院跡、他多数
・エルサレム:ヘロデ門の上部、エルサレム神殿の城壁
・バビロン:ネブカドネザル王が建設のイシュラル門の壁画
・ペルシャ:BC23世紀のシュメール・アッカド王朝「ナラム・シン戦勝碑」
・エジプト:ツタンカーメン王の装飾品、BC30世紀の金製の皿
エルサレムには菊は無かったので、「菊花紋」は「太陽神のシンボル」との説もあります。
山上で鏡岩に太陽光を反射させて信仰していた縄文人の末裔がこのシンボルを考案し、BC5300年以降に大陸で活躍した証しという壮大な古代史が可能性を帯びてきます。
平地に移動した後は鏡岩の代わりに鏡を御神体としたのが古神道で、余談ですがシャカ族も「日種」と呼ばれてました。
*1 「日本の誕生 皇室と日本人のルーツ」長浜浩明、ワック