前回は春秋歴補正にて242年に存在した卑弥呼(ヒミコ)を推定しましたが、今回は古墳の大きさも加味して推定します。
【行燈山古墳(あんどんやまこふん】
第10代崇神天皇の陵に治定(じじょう)
墳丘長242m、高さ31m
【宝来山古墳(ほうらいさんこふん)】
第11代垂仁天皇の陵に治定
墳丘長227m、高さ17.3m
【箸墓古墳(はしはかこふん)】
第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命(夜麻登登母母曾毘賣命)の墓に治定
墳丘長278m、高さ30m 上記2天皇の御陵よりも大きいです
この古墳の後円部の直径が『魏志倭人伝』にある卑弥呼の円墳の直径「百余歩」にほぼ一致
平成23年には、国立歴史民俗博物館調査チームは、築造「直後」の年代を西暦240年-260年頃と報告
同時代の第10代崇神天皇(ミマキ)および第11代垂仁天皇(イクメ)の陵よりも百襲姫命の墓は巨大かつ築造年代も242年と一致します。
当時は祭祀王(日巫女、ヒミコ)の方が統治王よりも上位だったことを鑑みると理解もできます。
『魏志倭人伝』で、卑弥呼の時の統治王(官)はイキマとミマシだったこともよく一致します。 *1
当時は1年を2年と計上する春秋歴だったので、宣化天皇即位の535年から在位年数の半分で遡ると(春秋歴補正)、崇神天皇は220年頃即位。
第7代孝霊天皇の即位は124年頃、第8代孝元天皇の即位は162年頃、百襲姫命(日巫女)は孝元天皇の妹だったので80才代まで長生きされたかも知れません。
因みに雄略天皇即位の456年から在位年数の半分で遡ると(春秋歴補正)、垂仁天皇(イクメ)は213年頃即位。
この場合の祭祀王(日巫女、ヒミコ)は倭姫命になりますが、宮内庁による墓の治定はなく、候補地は尾部古墳。
*1 「古事記の邪馬台国」竹内睦泰、青林堂