D.上つ記と神皇記

ウエツフミ(上つ記)*1 と神皇記(富士古文書)*2 の記載内容をウガヤフキアエズ朝について比較してみました。

【大きな相違】
歴代の天皇(神皇)、皇后(神后)の名前がことごとく異なる。

【比較的似ている箇所】
1代ずつずらしてみると、外寇、大飢饉等の重大な出来事はよく一致している。
①上つ記5代:オルシ軍が佐渡島へ来攻
 神皇記4代:海賊大いになる

②上つ記7代:奇豊姫
 神皇記6代:櫛豊毘女神后

③上つ記15代:朝鮮三族軍対馬へ、大船80艘
 神皇記14代:西大陸より外寇大挙

④上つ記32代:凶作で民みな苦しむ
 神皇記31代:大不作

⑤上つ記37代:オルシ軍来攻、大船50艘
 神皇記36代:外寇数百艘

⑥上つ記71代:全国大地震、大飢饉
 神皇記51代(※19代分欠?):全国大地震 

編集者は現在の筑紫市(上つ記)と富士市(富士古文書)とで異なっており、神武に関する記載は記紀よりも遥かに具体的かつ類似しております。
両文献とも偽書だと言われておりますが、文言上の表現は異なるので原本が共通とも思えず、偽書とするのは早計かと存じます。

尚、竹内文書(茨城分家版)とウエツフミ(上つ記)とのフキアエズ朝の歴代の天皇の名前は一致しており、何れかがコピペした可能性があります。
一方、神皇記は武内家に伝わる神代からの正史を徐福が写したと記録されております。
更に竹内文書(茨城分家版)と竹内文書(本家口伝版)とでは固有名詞や年代の違いが多いと、本家側より指摘されておりました。

(上つ記補足)*1
ウエツフミ(上つ記)は1223年に大友能直(豊後国守護)が編纂しました。
原書は高千穂大宮司家伝書、藤原朝臣基雄の家書、旧家の記など32部、翁78人の口伝。
翁78人の内、7人は100才以上で最高齢の平一郎は寛治5年(1092年)生まれで、この平一郎は見た目は60才位で1日に約20里を歩いたとのこと。
このことからも最良の食材と最高の医者があった古代の天皇が100才以上生きたという記録も嘘ではないかも知れません。
因みに神皇記では、33代神皇の時に殷の皇子が亡命し暦書を伝えて一根を一年に改めたとあります(2年を1年とする春秋歴ではない)。

(神皇記の記録者の徐福)*2
・孝霊天皇の72年に秦徐福は日本へ上陸した
・徐福が連れて来た童男童女は558人(内老人80人、幼人99人)
・紀州に上陸し3年後に不二蓬莱山を見つけ、まず阿祖山太神宮に拝礼
・武内宿禰は徐福の来朝を喜び、息子と徐福学を学ぶ
・徐福は神代からの歴史が湮滅するのを恐れ、記録して後世に伝えることを決意
・口伝、各家の実記録、系譜を記録して十二史談(徐福伝と称す)を作り、子孫も追加した
・消炭に油を加えて練り、篠竹の尖頭をよく噛んで、柏の葉、竹の葉、竹片、木片に神代文字で書いた
・小室高座山に宝蔵を造営し、持参した薬師如来像、十二史談、孔子著作書を納めた
・孝元天皇の7年に徐福は死去
・徐福の子孫は三十代まで続くが、桓武天皇の19年に富士山が大噴火し高天原の神代の古跡は消失
・徐福伝と古文書を寒川神社に納め、福岡氏は神官として保護した

*1 「上つ記」吉田八郎訳、八幡書店
*2 「富士古文書資料 神皇記」三輪義熈、八幡書店