C.神武の東征

カムヤマトイワレヒコの命(後の神武天皇)皇太子の東征を敵大将のナガスネヒコ(長脛彦)に注視して見てみます。

【古事記】
・白肩津(大阪湾沿岸)でナガスネヒコと戦い、皇太子の兄の五瀬命は矢で負傷し紀国で戦死
・ナガスネヒコの妹と結婚した天孫のニギハヤヒノミコトが皇太子に帰順
・ニギハヤヒノミコトの子孫は物部氏

【日本書記】
・日向国の東方で、天からニギハヤヒが降りた地に都を造ろうとして東征
・クキエノ坂でナガスネヒコと戦い、五瀬命は矢で負傷し紀国で戦死
・ナガスネヒコは天孫のニギハヤヒの天の羽羽矢を見せて正当性を主張
・皇太子も同じ天神のしるしを見せたので、ナガスネヒコは困った
・ナガスネヒコは戦闘を止めないので、ニギハヤヒは彼を殺害
・ニギハヤヒの子孫は物部氏

【ウエツフミ】 *1
・日高狭野(後の神武天皇)は第71代ウガヤフキアエズ天皇の三男
・新羅の王、将は三木の港にきて現在の奈良や和歌山のタケル(知事級)と交渉するも拒否された
・ナガスネヒコは天孫のニギハヤヒの弓矢を新羅人に見せて正当性を偽る
・新羅は穀物と引き換えに軍船と兵隊をナガスネヒコに送った
・狭野軍はクキエノ坂の西の坂本で新羅・ナガスネヒコ連合軍と戦い、五瀬命は矢で負傷しナグサトジの家で戦死
・山中で狭野軍に新羅軍は毒煙で攻めるが、狭野軍が佐士布都の太刀を抜いて左右に振ると新羅軍は全滅
・海上では皇軍は七匹の大鰐たちにも助けられて新羅の船五十艘を撃破
・ウマシマテの命(ナガスネヒコの妹とニギハヤヒの子)が狭野命を訪れて、ナガスネヒコに天孫の御印を奪われたことを訴え、狭野軍に加わる
・国見岳のナガスネヒコの陣地を狭野軍が攻めた
・ウマシマテは、新羅人の悪事にのって日本国を奪おうとした伯父のナガスネヒコに十握の剣を抜いた
・ナガスネヒコは、甥に切られるよりも自害した
・ウマシマテの子孫は物部氏

【神皇記(富士古文書)】 *2
・日高佐野(後の神武天皇)皇太子は第51代(神后除く)ウガヤフキアエズ神皇の四男
・賊軍のナガスネヒコを討つべく父神皇と東征
・皇太子はナガスネヒコは白木人(新羅人)で通じる者も国賊と考えた
・皇軍は筑紫の軍兵も率いて海陸ともに進軍
・宇陀の国見のナガスネヒコの陣地を皇軍は攻めた
・御木山では白木軍は毒煙で攻めたが、皇軍が神剣で風向きを変えたので、三木浦へ敗走
・筑紫沖で皇軍が神剣を海に投じると大暴風になり白木の軍船五十艘、他賊船500艘が沈む
・ウマシマテが皇軍を訪れて、神剣でナガスネヒコを欺くことを述べ、これを認める
・皇軍は国見山のナガスネヒコを取り囲んだ
・ウマシマテは、伯父のナガスネヒコを勅命にて切ると、大剣をかざして叫んだ
・ナガスネヒコは、甥に切られるよりも自害した
・東征の平定までに戦病死者数の兵卒は皇軍二万五千余、賊軍六万八千余、白木軍一万五千余

【考察】
ウエツフミと神皇記にあって、古事記と日本書記には記載が無い下記に注目します。
①賊軍に新羅軍が多く加担していた
②神武天皇はウガヤフキアエズ神皇(71代または51代)の皇太子

賊軍大将のナガスネヒコの甥のウマシマテは物部氏らの祖であり、ナガスネヒコが新羅と組んだ国賊だった事実は不都合にて記紀編纂の際に削除され、
同様に神武天皇の前に70代以上続いた日向(または高千穂)の神皇史も大和王朝にとって重要でなかったかと思料します。

*1 「上つ記」吉田八郎訳、八幡書店
*2 「富士古文献資料 神皇記」三輪義熈、八幡書店