i.義認

ルターは16世紀初頭当時のカトリック教会の腐敗を、「行為義認(善行によって神は人を義とする)」説に由来するものと考え、これに対して人は善行ではなく信仰によってのみ義とされるという「信仰義認」をパウロ書簡によって説きました。
以下、私なりに見直してみました。

Q.イエスの次の御言葉は「信仰義認」と「行為義認」のいづれか?
(マタイ7.21)
私に向って「主よ。主よ。」と言う者が皆天の国に入るのではない。天におられる私の父のみ旨を行う者だけが入るのである。
(マタイ7.23)
裁きの日にははっきり言おう、「私はお前たちをまったく知らない。悪を行なう者ども、私から離れ去れ。」と。

A.救われの順(義認)は、旧約の律法の「行為義認」 << イエスへの「信仰義認」 << 父神のみ旨の「行為義認」 

参考箇所:
(ルカ6.46)
あなた方は私を「主よ。主よ。」と呼びながら、どうして私の言うことを行わないのか。
(ルカ6.49)
私の言うことを聞いても行わない者は土台無しで土の上に家を建てた人に似ている。
川が押し寄せると、たちまち倒れ崩れ方は酷い。
(ルカ13.30)
イエスは言った「後の者で先になる者もあり、先の者で後になる者もある」

(使徒行録26.20)
ダマスコスの人々を初めとし、エルサレムの人々、またユダヤ全土、さらに異邦人まで、
悔い改めて神に立ち返り、悔い改めに相応しい業を行うように宣べ伝えました。

(ヤコブの手紙1.22-25)
御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて聞くだけで終わる者になってはいけません。
御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。
鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったかをすぐに忘れてしまいます。
しかし自由をもたらす完全な律法を一心に見つめこれを守る人は、聞いて忘れる人ではなく行う人です。
このような人は行いによって幸せになります。
(ヤコブの手紙2.24)
以上、明らかなように、人は行ないによって神の前に正しい者とされるのであって、信仰だけによるものではありません。

(ペテロの第一の手紙1.17)
人をそれぞれの行ないによって、えこひいきなくお裁きになる方を父と呼んでる。

【整理】
パウロの手紙(書簡):
旧約聖書の律法の「行為義認」 << イエスへの「信仰義認」
イエスの兄弟のヤコブの手紙
イエスへの「信仰義認」 << 父神のみ旨の「行為義認」
福音書:
旧約聖書の律法の「行為義認」 << イエスへの「信仰義認」 << 父神のみ旨の「行為義認」

 よってパウロ書簡とヤコブ書簡、福音書とは矛盾しておりません。尚、父神のみ旨の行為では、一番大切な教えは、①父神を愛する、次に大切な教えは、②隣人を愛する言動です。

 現代はキリスト教、回教、仏教、神道等の教えだけではうまく行かない時代ですので、教えの実践こそが、寛容かと存じます。